あれから75年ー改めて原爆ドームを見つめて

あれから75年ー改めて原爆ドームを見つめて

コロナ禍がくすぶり続ける2020年夏。本来は、日本中がオリンピックに熱狂していたはずのこの夏は、第二次大戦から75周年の節目の年でもある。新型コロナウィルスの大波が日本を、世界を飲みこもうとしていた3月、私は忍び寄る荒波に追い立てられるように広島を訪れていた。ミュージアムなど、ほぼ全ての施設が閉鎖してしまっていたが、原爆記念公園を歩き、75年たっても、戦争の悲惨さと平和への思いを伝える原爆ドームの前に立ち止まった。そして気づいた。このあまりにも世界的に有名なこの建物のことを、実は何も知らない、と。ヒロシマを個人レベルで紐づける糸を手繰った。

この西洋建築は何だったのか

私は、欧州に住んでもうじき30年を迎える。日本人として日本で過ごした時間よりも海外での生活が長くなっている。だからなのか… 広島市内の景観の中に、この西洋風の丸屋根を見ても、何の違和感も持たないのは。だが、少し考えてみれば、75年前の広島に、このコンクリート造りの立派な建物が、異国情緒を醸し浮き立っていなかったはずはない。「原爆ドーム」としてだけしか認識してこなかったこの建物は、いったい何だったのか。昭和初期に、日本人が設計したとはとても思えない姿ではないか。この建物の前に立ち、あまりにも何も知らないことに改めて気づかされた。

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<平和記念公園から望む原爆ドーム (そのすぐ横にあるのがおりづるタワー)©Michiko Kurita>

今では、広島平和記念碑として、ユネスコの世界遺産にも登録され、世界中から年間100万人超もの人々が訪れるこの建物は、1915年「広島県物産陳列館」として建てられたものだったと知った。日清戦争(1894-95)で軍都となり、急速に経済成長していた広島県は、広島県産製品の販路拡大を行なう必要があったのだ。ドームの脇の掲示板には、「品評会や展覧会の会場としても活用された」とある。今風にいえば、コンベンションセンターか、町おこしのお助け隊の拠点というところか。確かに、広島には、アオハタジャムとか、パン屋のアンデルセンなど、懐かしい昭和全国銘柄が今も元気なので、県の後押しはなかなかの効果をあげたのだろう。

大品評会の様子

<博覧会の様子(おりづるタワーでの展示より許可を得て撮影)©Michiko Kurita>

私が住む欧州ではどんな時代だったのだろう。19世紀終わりといえば、遅れて建国したベルギーが、産業革命を達成した破竹の勢いで、アフリカに乗り込んだ頃だ。当時、植民地政策を推進し、現在のコンゴ共和国の人々を搾取しまくった第二代国王レオポルド二世は、コロナ禍のBLM運動がベルギーにも及ぶと、「黒人差別の象徴」として非難の的となっている。その頃の欧州では、ロンドンやパリなどで、数多くの「万国博覧会」が開かれて、珍しい物産を取引する経済発展が推進されていた時代でもあった。総花的な万博は、その後、欧米ではすっかり影を潜めたが、昭和真っ只中の1970年には日本で大阪万博が華々しく開催されて、私は子供心に「世界の物産」が輝いて見えたことを覚えている。

平成も過ぎ、令和となった今、改めて万博やカジノをやろうという日本が、時空を超えて、あまりにも遠く感じられる。カジノは17~18世紀頃、欧州各地で始まったとされるが、規制・課税しながら合法化されるようになったのは、19世紀終わり頃からとのことで、21世紀の今となっては、欧州各地のカジノはかつての賑わいを失い、今やコロナで存続も危うい。

原爆ドームのふもとに立って初めて、私はこの広島県物産陳列館の元の姿を見たことがなかったことに気づいた。掲示版によれば、「82尺(約25m)の円筒をいただく白亜の摩天楼」とある。なんと威風堂々とした西洋建築だったことか。1945年8月6日、原爆はこの建物の東南約160m地上約600mの上空で炸裂し、爆風・熱線・放射線をほぼ真上から受け、館内にいた県の職員ら約30名は全員即死したと書かれている。

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<西洋文化の香り豊かな完成予想図(おりづるタワーでの展示より許可を得て撮影)©Michiko Kurita>

 

設計したのは欧州人だった

この鉄筋コンクリートの西洋風の建物を大正初期に設計できたのが、日本人であるはずはない。コロナ禍が忍び寄る中、原爆ドームの真横で、唯一開業していた「おりづるタワー」に昇ってみると、その謎を解く展示があった。

Jan Letzel profile

<和服姿が凛々しい若きヤン・レツル(おりづるタワーでの展示より許可を得て撮影)©Michiko Kurita>

その人の名は、ヤン・レツル(Jan LETZEL)。チェコ人とする資料もあるが、ハプスブルグ家が統治した最後のオーストリア=ハンガリー帝国領内で生まれ、オーストリア国籍だったようだ。1880年(明治13年)に生まれたレツルは、プラハの専門学校(現、プラハ芸術大学)で建築・土木を学んだ。モンテネグロ、ヘルツェゴビナなどバルカン半島諸国やイタリア各都市を渡り歩き、エジプト・カイロで働いた後、1907年(明治40年)、横浜にあったフランス人建築家事務所の招きに応じて、弱冠27歳で来日。その後独立して数々の建築物を手掛けた。最も有名なのが原爆ドームなわけだが、彼の手に成る建造物の名を見て、和服姿のこの西洋人が突然身近な人となってしまった。そこには、私に縁のある懐かしい名前が列挙されていたからだった。雙葉高等女学校(東京大空襲により焼失)、上智大学旧一号館(関東大震災で倒壊)などだ。

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 Sophia
<レツルが手掛けた当時の雙葉高等女学校(上)や上智大学(下)(おりづるタワーでの展示より許可を得て撮影)©Michiko Kurita>

広島県物産陳列館(現原爆ドーム)を手掛けた1915年には、日本が第一次世界大戦(1914~1918)に参戦したため、オーストリア国籍のレツルは敵国人ということになり、完成式典にも招かれることなく、彼の事務所は閉鎖を余儀なくされた。一度は故郷に戻ったものの、後に、チェコの外交官として再び来日し、日本とチェコの貿易振興に貢献。日本人の女の子を養女に迎えたという。関東大震災で自身も被災し、財産の全てを失ったレツルは失意のうちに帰欧したが、身体を壊し、45歳で短い生涯を閉じた。

眼下に原爆ドームの痛々しい姿を眺めながら、完成したばかりの白亜の西洋建築を思い描き、当時に思いを馳せた。世界を駆け巡った若き建築家レツル。彼が迎えた養女の日本人は、いったいその後どこでどんな人生を送ったのだろう。あれから、2つの大戦が起こり、震災や恐慌が社会を荒廃させ、その度に、人々はより強靭なものに建て直してきた。だが、原爆でこのような姿になりながら、100年経ってなお断固として残り、世界に平和を訴え続ける建物がある。そして、今、ウィルスという見えない敵が、私達の生き方そのものを変容させようとしている。

レツルが作ったこの建物は、戦後長らく放置された後、1966年永久保存が決まり、1996年「核兵器廃絶と世界恒久平和を求めるシンボル」としてユネスコの世界遺産に登録された。2017年7月、122カ国・地域の賛成多数により採択された核廃絶条約は、50カ国の批准で発効する。2020年8月7日現在、アイルランドなど3カ国が批准を完了し43カ国となった。原爆ドームをシンボルとして世界平和を求めるはずの唯一の被爆国日本は、今も批准していない。

<トップ写真:おりづるタワーから眺める現在の原爆ドーム ©Michiko Kurita>