特別寄稿:ドイツでの暮らしを想像しながら<br>世界コロナ日誌㉕

特別寄稿:ドイツでの暮らしを想像しながら
世界コロナ日誌㉕

欧州や日本では封鎖解除が進み、一段落した感があると同時に、あちこちでクラスター感染がくすぶっている。相変わらずアメリカやブラジルではコロナが猛威を振るっている。こんな中、今年、研究のためドイツに向かうはずだった慶應義塾大学文学部で、社会心理学を教えていらっしゃる杉浦淳吉教授に、今の思いを自由に書き綴っていただいた。

<トップ写真:欧州人もマスクを着けることが定着している ©European Union 2020>

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私はドイツでの在外研究への渡航を直前にした3月中旬に、EU諸国の内外との国境が封鎖され,渡航の延期を余儀なくされた。その時から3ヶ月半あまり、日本でステイホームの生活を送っている。多くの人々がそうであるように、今までとは違った生活は非常にストレスがかかる日々である。一方で、今であるからこそ何ができるのか、そのようなことに考えを巡らす日々でもある。自分は何のためにドイツで研究をしようとしていたのか、どんなアプローチをしようとしていたのか、そこで何を得ようとしたのか。この世界コロナ日誌では、そうした私自身が考え、取り組んできたことを紹介しながら、今の世界がどのように見えているのかの一例を私なりの視点から記述し、今後に向けてどのような研究をしていこうとしているのか、展望したい。

ドイツをフィールドとした社会心理学の研究

私は大学教員として、広く環境問題とそれにかかわる人々のリスクを対象とし、社会心理学を専門として研究を行っている。とりわけ、ゲーミング・シミュレレーションという手法を用いて問題解決にアプローチしている。現実の問題を単純なモデルとしてゲーム化し、大学の講義でも活用している。人々は、そのゲームをプレイし、ゲーム体験をゲーム後に振り返ることで概念化し、そこで獲得された視点を通じて現実の世界をみていく。それによって、ゲーム参加者は世界に対してゲーム前とは違った見方ができることになり、それが現実世界を変えていくことにつながると考えている。

現実の世界でも、ルールが変わり、状況の変化とともにルールの捉え方やルール自体も変化していく。新型コロナウイルスの感染拡大の影響により、人と人とが距離をとり、大勢が集まって活動することは大きな制約を受けることとなった。ドイツと日本を例にとれば、その点は共通している。では、そうした制約を支えているものは何だろうか。人によって捉え方は様々であろうが、私がドイツを研究フィールドとしてきた着眼点は3つある。第1に、「環境先進国」ドイツである。物質循環のシステムから再生可能エネルギー、交通政策など、日本からみるとユニークな点がみられる。第2に、政策への市民参加の仕組みと市民の行動である。意見を出し、それを集約したり、討論したりするための工夫が興味深い。第3は、ドイツのエッセン市で毎年開催される国際ゲーム見本市に代表されるような優れたゲームを生み出す国という魅力である。以上は一見するとコロナとは関係ないように捉えられるかもしれないが、私にとってはこのような視点から見えてくるものがある。

意思をもって行動する

改札のない駅

<「改札」という全数検査の概念すらないドイツの公共交通機関 ©Junkichi Sugiura>

コロナに限らず日本での生活者の視点からドイツの政策をみてみると、鉄道や路面電車などで改札がないことに気づく。これは他の欧州の国にもみられることだが、有効な切符をもっていなくても乗車できてしまう。ところが、突然抜き打ちで検察係が乗車してきて、切符をもっていなければ罰金の支払いが適応される。「後で買うつもりだった」は通用しない。あくまで、個人が行動する際に明確な意思をもっていなければならない。コロナが日常となった現在、マスク(口を鼻を覆うもの)をつけていないと罰金を払わなければならない、というニュースをSNSで見た時に、乗車の際の切符のことが思い浮かんだ。ドイツで暮らす人々にとってマスクをつけることは不慣れなことだったろうが、意思をもってマスクをつけているのだろうと思える。マスクを必要だから着ける、いや着けない、というのは個人の意思で行うとすれば、マスク不着用に対して罰金というのは、個人の自由な意思に制約を与えることである。このことは、鉄道の検札と似ているようで異なる問題だ。列車に乗るときは料金が必要だというのは社会の構成員は潜在的に合意できていることである。一方、マスクをつける習慣がない人たちにとって、有用性の判断はもちろんのこと、文化によって口元の表情がコミュニケーションに役立つという考え方によれば、他者を認識する情報も失われることになる。種々問題を抱えながらも行政はマスクの着用を求めるなど公衆衛生を前提に行動制限を行い、守られなければ罰金というのは、検札の話とは対照的である。社会を適切に維持していくために、必要に応じてルールをつくり、個人の自由を制約してでも、それを徹底していく。ドイツに渡航できた時には、マスクをつけて行動することによる意識の変化をドイツで暮らす人たちに尋ねてみたい。

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<ほぼ誰もがマスクを着用している、7月のドイツ・ハノーファー駅©Riho Taguchi>

周囲からの影響

日本はどうだろうか。切符を買わなければ列車に乗れないし、無人駅で乗って車内で検札に会えば「買う時間がなかった、下車する時に払うつもりだった」と言ってその場で切符を購入すれば、それで許されるということは割と常識的な考えではないだろうか。マスクはどうだろうか。日本では以前からマスクをつける習慣があったということもあるから、抵抗は少ない。日本で緊急事態宣言以前の3月頃、電車の中でマスクをつけている人も多かったが、つけてない人もいた。それはマスクが入手できなかったからである。緊急事態宣言が解除された6月上旬、私は3度自宅から職場まで電車で出かけたが、マスク着用率は100%であり、着けてない人を見つけることができなかった。この状況で、マスクを着けないで公共の場に出ることは非常に厳しい「周りからの視線」に晒されることになるだろうと私自身思えた。もちろん、これは私が観察した事例なのであってただちに一般化はできないが、ネットのニュースやSNSなどでも、そうした恐怖を与えられる側、そして与える側のコメントが数多く見られた。

日本での緊急事態宣言によるステイホームもマスクの着用も、よく言われているように、「外出禁止」とか「罰則」とかではなく、「自粛」という言葉に代表されるように、「自主的に」行われたものである。しかし、「自粛の要請」、さらには「自主的な自粛」といった本来の言葉の意味からすれば矛盾するような言葉の使われ方が出てきているように、「皆がやっているから、守らなければならない」という意味においての「社会的規範」が高い状況である。

行動から信念へ、そして分断

多くの人が行なっている行動に従うことは、当初は自分の本心は違っても表面的に多くの人々と同じ行動をとる。これが繰り返されると何が起こるだろうか。最初は表面的に、仕方なく行っていたことも、状況にうまく対応できた人たちは、「これが大事なんだ」と、ステイホームやマスク着用が重要であるという信念が強くなる。こうなると「多くの人がやっているから」という社会的規範ではなく、「自分がステイホームすることは重要なことだ」という強い信念にもとづいた個人的規範が高まる。一方で、「自粛要請」に従いつつも、心理的側面をはじめ様々な面から適応が難しかった人たちは特に、「コロナ以前」に行っていた行動を可能な範囲で再開するようになる。自ら自由を制限してステイホームしている人たちからみたら、他の人たちが遊びに出かけている様子は不満の種となるだろう。

社会が「自粛」から「再開」へと進行するにつれ、人々は二つの立場に両極化していくことになる。要請されたコロナ対策に適応し、個人的規範が高まり、「まだまだコロナは危ない」とする人たちは、以前の行動を再開する人たち、マスクをしない人たちを警戒したり、敵対心をもったりする。自粛は半ば強制されたものかもしれないが、それを実践する自分自身を「ここまで頑張ってやってきたのだ」と引き続き肯定していかないと、それまでの自分を否定してしまうかのように思えるからである。一方で、以前の行動を再開しようとする人たちは、コロナに警戒しつつも、日常生活や経済を取り戻すことの大切さを強く思うだろう。新たな感染の拡大もみられるが、以前の行動を再開してみると、「意外と大丈夫なのではないか」と思えてくる。自分が一度とってしまった行動は変えられないので、リスクの認識を変化させることで自分自身を安心させ、心の中の葛藤を解消させるのである。このことは、不必要な社会の分断を招く。双方の視点に立つことができれば異なる考えや行動をとっている人たちを理解できる。しかし、私たちが触れているメディア、特にインターネットのニュースサイトやSNSは、閲覧する人たちにとって都合のよい、心地よい情報源となる。結果として、同じ意見の人たち同士でお互いの意見を強め合い、エコーチェンバーと呼ばれる異なる意見のグループ同士の対立、両極化が起こる。

新たなルールづくりと参加

冒頭で鉄道の検札の例を挙げたが、これは自主的な行動に任せ、時に検査をすることにより、全部を監視するシステムへの投資(すべての駅に自動改札システムを導入する)よりも、部分的に監視をする(ドイツの検札システム)ことで、監視のコストを下げることができるのである。監視といえば、日本でも接触確認アプリが登場した。新型コロナウイルスに感染した人と接した履歴が暗号化され個人情報が保護されながら確認できる仕組みである。こうしたアプリは個人の行動の履歴が国などによって管理されないか懸念もあるが、そうした懸念を払しょくする仕組みやそれを理解してもらえるような情報が提供されれば有効に働くだろう。それには皆が自主的にその仕組みに参加する必要がある。多くの人が主体的に参加すれば、ボトムアップにその機能が有効になっていく。しかし、誰も参加しなければ、権力によるトップダウンによって管理されなければならないような事態にもなるだろう。

社会全体で共有されるようなルールもあるが、多くの人たちは皆それぞれの生活があり、一律に守れなかったり、守ること自体が不合理だったりすることもあるだろう。私たちにとって、どういうアイディアでどういったルールを作ればよいのか。自ら作ったルールならば状況に応じた調整もできるだろう。そのルールが合理的で効果的であるには、適切な情報も必要である。

新型コロナウイルスは2020年3月から急激に感染拡大したので、おそらくはシステムづくりという点ではドイツにおいては時間的切迫から十分な準備がないまま対策が実行された可能性もある。一段落してきた今、社会全体の利益を考えながら市民が協力していく時間的に余裕もできてきている。長期的展望にたってシステムを作り上げていくことができるのではないだろうか。

空っぽの空港 (c) Taz

<人影のない成田空港。欧州と日本をつなぐフライトも、ほとんどが欠航している ©Taz>

おわりに

7月に入って日本では感染者数の数が東京を中心に再び増えてきている。人々が集まる場所でクラスターが発生し、政府による国内旅行を促すキャンペーンは賛否で沸いている。日本では新型コロナウイルスによる死者が欧米に比べて少ないが、その解釈も様々である。EUは域内への日本からの入国を認めるよう加盟各国に勧告したとのニュースも、ドイツは本稿執筆の段階で日本からの入国を認めていない。日本へのドイツからの入国が認められない現状では相互性の観点から認められないということが在日ドイツ大使館のWEBサイトでも示されている。また、渡航延期以来、いつ渡航できるのか不確かな状況が何か月も続いてきた中で、ドイツへの日本人の入国が認められるようになっても、改めて準備しなければならないことも多々ある。

人は置かれた状況や立場によって、物事に対する異なる見方をするものである。本稿に対しても、各所で「そこは違うだろう」という突っ込みどころがあったかもしれない。それは私が今回紹介した社会心理学の考え方にもとづいた私なりの「社会をみる見方」の一例として捉えていただきたい。私たちの行動は、信念にもとづくのか、社会の目を気にするのか?自分と異なる意見をもつ人たちを自分はどう捉え、そこから自分はどう意見を変えたり変えなかったりするのだろうか。起きている出来事を個々人がどう意味づけるかは、今後の行動にもかかわってくる。ドイツでの生活に思いをはせながら、これからどう行動していったらよいのか、引き続き考え続けたい。

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寄稿者プロフィール

杉浦淳吉/Junkichi SUGIURA

慶應義塾大学文学部教授、博士(心理学)。専門は社会心理学、環境行動論、リスクコミュニケーション論。ゲーミング・シミュレーションの手法により、環境配慮行動の普及に関する社会運動を再現した「説得納得ゲーム」を開発・実践し、教育や研修への活用や、ドイツ、中国等、海外での実施による国際比較研究も行っている。他にも、実際の市民参加による合意形成会議を再現した利害調整ゲーム「ステークホルダーズ」、気候変動とエネルギー問題の学習教材「省エネ行動トランプ」、「エコな住まい方すごろく」など、オリジナルのゲーミングを多数開発してきている。現在は、社会の分断と統合プロセスをゲーミングによって再現し、なぜ社会は分断していくのか、分断した社会の統合はいかにして可能か、ゲーミングの設定やルールの工夫を通じ、こうした問題の解明を試みている。

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